藤原誠治さんの体験談
一人例会の体験談
断酒会に感謝
雲南西支部 藤原誠治
中学卒業1年間の訓練校、そして職人の弟子になった。真新しい作業着を着てつれて行かれたのは飯場、ニッカズボン姿の職人が多く居た。1人の職人が「オイこっちに来い」と手招きをした。行くとコップに酒を入れ「飲めや」・・・それが酒人生の始まりだった。以来仕事が終わると酒、休日には酒ついに朝からでも飲む、そんな生活が続いた。その頃日本は戦後から大きく復興していた。
東京オリンピック、その数年後大阪万博と大きな出来事があり万博には延べ6,500万人が入場した。
その頃私は大阪に居た。仕事はいくらでもあった。仕事で得た金は全て大阪の街に消えてしまった。大阪市内で飯場から飯場への生活が続いた。
さらに京都、神戸、と転々とし道具1つで広島へ、穴ぐらの様な生活が2年間続いた。酒遊びでいつも無一文。しかし酒を飲む事、遊ぶ事はできた、不思議な事です。
そして私は松江に帰った。松江で働いたが酒遊びの生活は続いた。
そんな時ふとした事から1人の女性に出会った。まだ高校3年生でした。そして交際が始まった。毎日のように部活が終わる時間に学校まで迎えに行き、そして家に送って行く。車中での会話が唯一2人の時間だった。そんな私を彼女の両親は、真面目な人間だと思っていた様ですが、私には別の顔があった。
早く帰って私の世界に戻る必要があった。それは酒です。毎日毎日街を飲み歩いていた。松江のネオン街では「あっ藤原だ・・・」と言われる程になっていた、ケンカもした。暴れて人を殴り、その倍人にも殴られた。警察にも何度も厄介になった。
一方で彼女とはさらに親しくなり結婚する事になった。金の無い私は親に頼った。全ての金を用意してもらい、結婚した。金も無い、若いだけが取り柄の生活が始まったがすぐに私の本当の姿が出た。酒々の生活、2人の子供も出来、周りの協力で家も建て、周りから見れば普通の家庭に見えたかもしれないが、家の中は私の酒で壊れて行った。来る日も来る日も酒酒酒の生活、家の事子供の事など考えない自分の世界を作っていった。
同時に家庭の中で私は孤立していた、酒それに伴う遊び借金地獄、自分勝手に腹を立て家を出て何日も帰らないそんな事も度々ありました。そんな生活が長く続く訳が無く両家の親から別居して目を覚ませと言われ、別居生活をする事になった。
私は別居先を松江から遠く離れた広島を選んだ。広島で目を覚ますどころか、独身気分さらに酒遊びが酷くなった。どうにもならなくなり、母と弟が広島まで私を迎えに来た。広島で多額の借金を作った。その一部を頭金の様に支払って貰い私は松江では無く私の実家に帰った。しばらくして私の荷物は紙袋2つだった。大きな荷物(?)は多額の借金3千万近くあった。それから自暴自棄、人を怨み、憎み、妬み、飲み続け入退院の繰り返し体もすっかり衰弱した。
平成9年の夏の終わり入院中の私の元に別れた妻が2人の子供と来ました。子供もすっかり成人していた。別れた妻から「いいかげんにしたら」と一喝された。彼女の顔は、女手一つで子供を育てた1人の逞しい女性の姿でした。それに比べて私は・・・何と情けない、やっと目が覚めた。苦労苦労で苦しみ続けた元妻そして子供に助けられるとはどこまで世話を掛けるのか自責しました。
それから1人の看護師、保健師と繋がり断酒会に入会、そこで多くの仲間と出会い、体験談を聞き、改めて自分の過去を反省する事が出来た。そして何よりも多くの人に出会えた事で断酒が続いている。私はいつも思う。酒で失った物事は数え切れない。
その中で一番悔しいのは、やはり家族を失ったことです。忘れたいが忘れてしまえばまた何かが起こる気がする。過去を反省する場所はやはり断酒会。例会は私の命綱、手を放さず例会出席続けたいと思っています。壊した過去を見つめながら・・・。
最近、仕事の都合等で例会出席が少ない、反省しています。例会出席あっての1日断酒これからも頑張ります。「一人例会の体験談です」
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