竹田一男さんの体験談
アルコール関連問題地域セミナーより
苦悩の日々
本人の立場 竹田 一男
皆様は、「アルコール依存症」という病気をご存知でしょうか。俗にいう「アル中」と呼ばれています
「アル中」というと皆様の頭の中では、どのようなイメージを描かれますでしょうか。毎日朝から酒を飲み、仕事もしないで他人に迷惑をかけたり、酔っ払って道路で寝ている人というイメージではないでしょうか。私も良いお酒を飲んでいた時は、同じように思っていました。何時からかわかりませんが段々とお酒の飲み方や飲む量について家族から注意をされるようになってきたのが30歳代半ばでした。それでも自分では酒に問題があるとは気付きませんでしたが、こうした酒が後に家族を地獄の生活へ追い込むようになろうとは、全く思いもしない事でした。
私は22才の時出雲市農協へ勤めました。その頃父からは、「酒を飲んでも飲まれたら駄目だぞ」と言い聞かせるように言われてきました。私は30歳前に職場の検診で結核とわかり長期の療養生活を送ることになりました。何分長い入院でありますし気持ち的にも落ち込んでいました。そのとき入院中の仲間から「竹田君来いヨ」と呼ばれ、行ってみると数人で酒を飲んでおられたのです。「大丈夫ですか。看護婦さんに見つかりますヨ」と聞くと「許しをもらってあるから来いヨ」と言われ仲間に入りました。一口二口飲んでいる内にお互い話もはずみ、気持ちも和らいでくるのを感じました。実は私にとって日本酒は、この時が初めてだったのです。「お酒っていいもんだなー」と思うようになりました。こうして時折ではありましたが、皆とお酒を口にする機会が出来、退屈しない入院生活を送りました。退院して数ヶ月後に人事異動が有り、全く経験したことのない部署へと配属になり、不安を抱えながら仕事につきました。ちょうどそのころから時代の流れによって事務処理などが全てコンピューター化され私もそれを扱う仕事になったのですが私自身覚えようと思う気力もなく、ただただ事務処理を女性職員に頼んで行ってもらう毎日でした。それに気付いた若い職員から、「竹田さん!いつになったら自分で出来るようになるんですか。早く覚えて下さい!」と注意されると「なにー若いもんが!!」と心の中で思っていても、現実言われる通りだから口にも出すこともできず、自分自身の中にしまい込み仕事に対しての意欲や職場内での人間関係が日に日に悪くなり、仕事に出かけるのがだんだんと辛くなってきました。その時、ふっと「あの入院をしていた時の酒、美味しかったなぁ。」と思った瞬間、職場の近くの酒屋へ行き自販機でワンカップを買い、それでも人目を気にしながら辺りを見回し飲みました。体に温もりを感じながら「酒っていいなー!」と、30年余り経った今でも、あの時の酒の味は覚えています。結局コンビーターをマスターする事なく、注意を受ければ嫌なことから逃れたい、嫌なことは忘れたいという気持ちから酒を口にする日が多くなってきました。
家庭へ帰れば酒の臭いをさせながら妻に仕事上での愚痴をこぼしたり、それを聞いてくれなかったりすると妻に手を挙げるようになっていたのです。この頃からだんだんと酒の量が増え、節度のあるお酒が飲めなくなって来たように思います。職場では、二日酔いで勤めたり、お酒を飲みながら仕事をしたり、飲酒運転は当たり前のようにするといった具合で上司から再三にわたり注意を受けるのですが、その時は何とかせねば・・・と思うのですが、私の体はすでに自制が出来る体ではありませんでした。結局酒がもとで人事異動を繰り返しさせられましたが、どこの部署とも必要のない人間として扱われていたのです。妻は私の酒の事で上司に呼び出され、幾度なく注意をされていたようですが、私自身すでに酒なしでの暮らしは出来ませんでした。結局平成5年の8月、いつもの通り酒の臭いをさせながら職場に行くと、直ちに上司から呼ばれ、「竹田君、今まで色々と注意をしてきたけど、もう明日から出なくてもいいから。今日もこれで帰りなさい」と告げられその場で解雇通告を受けました。日頃から、「酒ぐらいの事で仕事を失うことはないだろう。酒ぐらい何時でも止められる」と思いながら勤めていましたので、さすがにショックは大きいものがありました。22才から勤め出し44才までの半分はお酒での人生でした。父が口うるさく言っていた、「酒は飲んでも飲まれるなヨ」という言葉が今しみじみと伝わって来ます。
一方、家庭では相変わらず酒を飲む日が続きます。当然妻は私に注意する毎日です。私にとってそれは、火に油を注ぐようなもので余計に腹を立てて飲んだり、隠して飲んだりします。妻の気持ちからすれば注意すれば何とか酒を止めてもらえるのでは、或いは少なくしてもらえるのではという気持ちがあると思いますが、私はそうした家族が願うような酒を飲むことは出来ませんでした。私の体は酒という魔物に取りつかれ自分自身を見失い、挙句の果てに家族を巻き込んでの暴言暴力の数々、只自らの満足感の中でだけ生活していたように思います。
私には妻との間に子供が3人います。どこの家庭にも有るように親は子供に愛情を注ぎ子供の成長を楽しみに生きがいを感じながら日々を暮らす。これが普通の家庭であり普通の親子関係なのです。ところが、私は毎日酒に溺れ、周りを見ることが出来ずにいる中で、妻や両親は、子供の教育、家庭の経済的な事、夫婦間のトラブル等、様々なことに対して私に話しかけようとしますが、私自身全く耳を傾けようとせず、むしろ早くその場から逃れたいという気持ちから、ついカッとなって暴言を吐き、側にあった物を投げつける。こうした行動がしばしば出てくるようになりました。こうなると酒は益々多くなり、妻の顔を殴ったり体をけったりと子供の見ている前で平気で行っていたのです。すると、まだ幼かった下の娘が、「お父ちゃん止めて!お父ちゃん止めて!」と泣きながら私の体を押さえるのです。こうしたことが9年間も続きました。また、息子が中学生の時です。私と父が酒の事で凄まじく言い争っているときに、息子が私の父に向って「おじいさん、もうやめてくれ!そうしておじいさんやお母さんが口うるさく言うから、お父さんは酒を飲まれーわネ」と私を庇うような言葉を言ってくれたので私は父と妻に、「ほら見ろ!わしの見方をしてごすがや」と傲慢な態度に出ていました。その息子が中学三年生の時でした。それは文化祭と運動会が2日間に亘って開かれ、息子にとっては中学校生活で最も思い出の残る行事だったと思います。にもかかわらず私は職場の汚れた洋服で飲酒運転をし、楽しんでいる息子の前に行きました。声を掛ける間もなく息子は私を見るなりその場から立ち去りました。後から友達にからかわれ、1日中何も食べずに水道水だけで1日を過ごしたそうです。その時の息子の気持ちを考えてやることすら出来ない私だったのです。その日家に帰ると当然妻や両親から怒鳴られ、息子は部屋に閉じこもってただただ泣いていたそうです。こうまでして自分の身勝手さから酒を飲んで、我が子にまで悲しい思いをさせる。こういう親だからとうとう子供達から「お父さん!」と呼んでもらえない日が来ました。父親からは毎日説教され、母は毎晩のように仏壇に手を合わせて祈り、妻とは暴言暴力、ついには子供にまで見放されてしまったのです。そこまでなっても唯一私の救いは酒を飲んで紛らわす事しかありませんでした。ある朝、妻が台所で食事の準備をしている時母がこっそり私の枕元に来て「一男、頼むから飲酒運転はしてごすな!お前一人が何かあれば、それは自業自得だけんな。しかし他人様に危害があればこの家におられんようになるけんな。それと、とにかくお母ちゃんと仲良くしてくれ。子供が泣いてばっかりおーがや。本当に頼むけん!」と頭を下げながら私に頼む母の姿を見ると、「なんとかせねば、このままでは・・・」と思うのですが、母が立ち去った後、隠している酒に手を出してしまうという、本当に情けない自分がいました。いったい母の言葉は何だったのか。自分自身が残念でなりませんでした。
私も幾度なく止めなければと思うこともありましたが、出来ませんでした。結局平成5年9月仕事を失い、家族の中にも居場所をなくした私は、アルコール専門病院へ入院しました。主治医から「アルコール依存症という病気です」と告げられ、その後に「この病気は完治はありませんが回復はあります。その為には断酒会に行きなさい」と言われ、退院後その断酒会に入らせて頂きました。
今、酒を断った正常な心で振り返って見ますと、たとえ止めたくても止められない酒を飲んできたにしても、その酒害を受けた家族の不快な思いは決して消え去るものではありません。また、私自身も忘れてはならないと思っています。
断酒会に出席するようになってからたくさんの仲間と知り合うことが出来、支えていただき、またそれが原動力になっています。これからも明るく楽しい幸せな生活を送り続けるためには、まずお酒を飲まない事を優先に生きなければならないと思っています。最後に、私は「アルコール依存症」という病気を一生背負っていくわけですが、お酒が決して悪いものだとは思っていません。ただお酒が原因で、他の病気を引き起こすこともあります。私は酒を断って12年目に「狭心症」を発症しました。問診の結果長い間の酒が原因だと告げられ、2日後に心臓内の冠動脈へステント治療を受けました。どうか皆様方、お一人お一人がお酒と良いお付き合いをされ、明るく楽しく若々しく健康を保ち続けて頂きたいと思います。本日は私の拙い体験談を聞いて頂き、有難うございました。
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